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参加者の声

渡辺節子の旅2004.09.03-09.17

クロアチア・スロベニア・ウィーンの旅15日

          ワールドステイクラブ会員 田邉 拙(文・写真)

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の構成国で、
1991年独立を宣言したスロベニア共和国とクロアチア共和国はそれぞれ、面積日本の5.3%、15%、人口198万、442万、人口密度98人、78人(日本は342人)、 国民所得1人当たり10,370ドル、4,540ドル(日本は34,010ドル)、
宗教(ローマ・カトリック、セルビア正教)民族(スロベニア、クロアチア、セルビア、ハンガリー、イタリア等)の混在した国である。
ウィーンからグラーツを経て、クロアチアの首都 ザグレブに到着。
ハプスブルグ家の黄色と市のシンボルカラーの青色が赤茶色の屋根の街に彩りを添える中世の古い都市である。
ザグレブのシンボルの大聖堂は聖母被昇天大聖堂で、
キリスト教が砂漠の戒律の宗教からローマにわたって愛の宗教に変貌したことを象徴している。
ザグレブから160km、アルプスの瞳と呼ばれるスロベニアのブレッド湖へ。
ここはまさに神によって造られたように整った美しい景観である。
湖中のブレッド島にある17世紀に改築されたバロック様式の聖マリア教会の白い塔がアルプスを背にして見事な調和を保っている。
遊歩道が湖を一周しておりあらゆる角度から湖を見渡せるが、
聖マリア教会を右に配した夜明けの景色はソロモンの栄華も如何ともなし得ぬというべきか。
イストリア半島を経て、世界遺産プリトヴィッツェ湖群国立公園を巡り、
アドリア海を右に見てドブロブニクへ南下する。
アドリア海に面したクロアチアの細長い地域は、内陸部に牧草地や畑が連なり、
その奥には海岸線と平行に緑の斑点を持った低い岩山が続いている。
1000を超す島が散在するアドリア海と低い山なみに挟まれてローマ帝国、
オーストリア・ハンガリー帝国の歴史が色濃く残る街が点在している。
対岸の島々の一部はブーラと呼ばれる時速200kmにも達するアルプス山脈を越えてくる風のため禿げているといわれる。
和辻哲郎は欧州の風土を日本のモンスーン型に対して牧場型と規定している。
自然は豊かではないがモンスーン型のように暴威を振るわない。
ブーラを例外として風は一般に弱い。
それは樹木の自然な傘形や垂直に伸びた糸杉を見ると明らかである。
夏は乾燥し冬は穏やかに湿潤であり、夏の乾燥は雑草や虫を駆逐し、冬の湿潤は全土を牧場とする。
石灰岩の硬い山肌が露出している隙間を緑が埋めている。
空気は湿気を含まず澄み切っており、明るく陰がない。
海は磯の匂いをもたない。海草はなく、貝殻も見当たらない。
魚類もあまりいないのか漁をする漁船も見ない。
海は澄明で無機的な色をしており、有機物の浮遊する日本の海と比べて汚れなく明るく美しい。
LPに対するCDのように。
日本では海は、大陸から隔てる障壁であり幸を齎す畑であるのに対して、アドリア海は航路であり畑ではない。
クロアチアの 産業は造船業、観光業などであり、
街で会い私に話しかけてきた幾人かの人は造船に関係し日本に行ったことのある人であった。
 クロアチアの南端ドブロブニクはアドリア海の真珠と呼ばれ、世界遺産に指定された中世要塞都市である。
7世紀に南スラブ族によってビザンチン帝国の支配から解放されてから、
急速に石積みの堅固な壁に守られた要塞都市となり、またイタリアとの海洋貿易により繁栄した。
現在の旧市街は14世紀頃から造られたもので、火災を避けて旧市街全て石で覆われている。
城壁は街区から5mほど離れて街を囲っており高いところで23mある。
山側の壁からすり鉢状の急坂を下って底辺に向かって幅2mほどの狭い石段がほぼ10m間隔に14本ほどあり、
両側は住宅、レストラン、空室ありのアパートの広告や不動産屋などがある。
街を囲む城壁は3つの門を持ち、入り口のピレ門から中心部を貫き街の重要機関を通って港に至るストラダンと呼ばれる200mほどの長さの大通りがある。
小さいながら実に機能的かつ堅固な要塞都市として設計されており、
中世の構造そのままに現在も生活の息吹を発散させている。
城壁からのアドリア海の眺めは、目の前のロクルム島、その手前に停泊している中世そのままの帆船の優雅な姿とともに心に染みる景観である。
城壁には聖ペテロ、聖パウロ、聖ステファノ、聖ルカ、聖ヤコブなどキリストの使徒の名を冠した見張り所が設けられており、街の守護神をまつる聖ヴラホ教会、チチアーノの描く『聖母被昇天』が飾られた大聖堂、フランシスコ修道院、ドミニコ修道院などがあり、中世のローマ・カソリックの雰囲気を漂わせている。 クロアチアでは街でソフトクリームを買ったとき2人分をコーンに入れたと倍の料金を請求され、ホテルでもワインで同様のことがあった。
ここはまだギリシャ・ローマ時代の思想(商売は基本的に泥棒と同じ)が生きているのか、
あるいは日本からの観光客が少ないためであろうか。
ドブロブニクからはフェリーでリエカまで北上、クランゲルフルトまでバスで行き、空路ウィーンに飛んで旅を終えた。

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