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ファッションに初めて興味を持ったのは高校生の頃です。好きが昂じて服飾評論家になりたい思うようになりました。その後、服飾評論家より活動分野の広いファッション・ジャーナリストに志望を変えました。大学の専攻も迷わず「新聞学科」を選び、卒業以来約40年間、この道一筋に生きてきました。こういうのを『天職』というのでしょう。 名古屋に本社を置く新聞社に就職して一年ほど経ったとき、関西大学の先輩から新しく発足した新聞社で働いてみないかと、声が掛かりました。4人で始めたばかりのミニベンチャー・ビジネスです。会社のスケール、従業員数、信用度どれをとっても格段の開きがありました。 新しい会社ではがむしゃらに働きました。社員数は少ないのに仕事はいくらでもある、日本の国も経済発展の真っ盛り、若いので体力は充分。毎日が「午前様」、終電車に乗り遅れタクシーでの帰宅もしばしばでした。出張も多く、近所の人から母子家庭と間違えられるような状況でした。まさに企業戦士そのものです。おかげで短期間に新聞、雑誌の編集、写真、デザイン、製版、印刷、製本など自分でも驚くほど広範囲の知識を得ることが出来ました。 昭和40年の後半になると海外に出る人も多くなってきました。我が社でもそのうちに、と待ちの姿勢を続けているより、外国へ行かなければ出来ない新しい仕事を作ろうと思い、ヨーロッパのデザイナーの写真を収録したファッション雑誌を発行することにしました。2月と8月のファッションシーズンにはどうしてもヨーロッパに出張しなければなりません。ヨーロッパによく出ているのなら海外でスタイルブックの撮影をして欲しいという毛織メーカーからの依頼もあり海外出張する機会がいっそう増えました。 「求めよ、さらば与えられん」人間は「こうしたい」と希望を持ち続けると、大方は叶えられるものです。マックスウェル・マルツ著の「幸福への挑戦=サイコ・サイバネティクス」にそのメカニズムが明らかにされています。 ただ一つ思い通りにいかなかったのが、パーキンソン病に罹ったことです。自分のライフプランでは65歳まで会社で仕事をして、その後悠々自適の人生を送る予定でした。平成2年にパーキンソンという難病に罹っていることを医師から告知され、いささかショックを受けましたが、悲観的になり、沈んでしまうと病気を悪くすることはあつても、良くはなりません。気を取り直し、病気を素直に受け入れることにしました。 予定より3年早い62歳の時に代表取締役専務の座を去りました。 |